『葛城』と『鉢木』の面白いところは、どちらもとても人間的なところ。
『葛城』は、女神がすごく人間的ですね。だいたいが神様が人間に救いを求めるというのも不思議なことなんですけれども…。女神が罰を受けた理由は、葛城山の山伏が修業に入る…峰入りと言いますけれどね。そこで「修業する人間たちのために橋を架けなさい」と不動明王が一言主の女神に命令するのだけれど、自分のことを醜いと思っている女神は、自分を恥じているわけですね。だから、人目に付くのはイヤだと真夜中にこっそりと働く…、これもちょっと神様としては面白いな、と。で、なかなか橋が建設されないんですね。それで、不動明王は、怒りを増して、役行者に命令して蔦でグルグル巻きにさせるんです。女神は、未だに蔦にからまってグルグル巻きにされて苦しんでいる、と。もう何百年ですか、多分…何百年も蔦にからまったまま…それを助けてくれと頼むわけです。能は、たいてい宿を貸してくれって言われても断るんです。もう9割以上の曲が、宿を貸してくれっていわれたときに断る。みすぼらしいからとか…最終的にほとんどは貸すんですけれども、まずは断るんです。でもこの曲は、珍しく自ら自分のところにお泊りなさい、という。目的が何かあるから、連れてくる。そこで、さんざんもてなしてその挙句に、救ってくれ、と。なんか、これは女神がすごく人間的であるな、と。そして、祈りによって、罰されていたのが解かれてそして喜びの表現と感謝の表現だと思うんですけれども、夜の深々とした雪が降り積もった静かな夜、葛城山の山中で女神が静かに舞を舞う。月の夜神楽ですね。雪の中の月夜の夜神楽…想像すると、それは綺麗な美しい、しかもしーんとしているようなそういう情景が思い浮かぶんですけれど…。葛城の女神の人間的なところもあり、あるいは、女神としての幽玄的な美しさというか浄らかな人間離れしたところもあり、どちらも楽しめる曲となっています。
『鉢木』は、最明寺時頼…お坊さんがね、捨て台詞のようなことを言うシーンがあることなんですね。水戸黄門と同じように政治を正そうと諸国を回っていたんですが。雪深くなってきたので、東北を巡回していたけれども鎌倉に戻ろうということで、その途中で佐野の辺りに着く…。あまりに大雪なので、まだ日は高いけれど一歩も進めないので、宿を借りようと佐野源左衛門常世の家に行くんですが、奥さんが一人で留守番をしていて、「主人の留守だから勝手に貸すわけにはいきません」と。「分かった、それじゃご主人が帰られるまで待とう」と待つわけですね。主人が戻ってくるんですが「自分たち二人でも住めないようなボロ家だからとてもお泊めできません」と言って「ここから数キロか行ったら宿場があるからそこへ行け」と言う。それで、最明寺は「なんだ、せっかく待っていたのに…待ってもしょうがない人を待ったなぁ…」と捨て台詞のようなことを言いながら去っていくわけですよ。
もうひとつは、それを夫婦が見送るところ。これも能にあまりない趣向でね。いかにも残念がって出ていくのを見送って自分も情けなさを感じる。そこで奥さんが「なんで泊めてあげないの。自分たちの罪とか前世の罪によってこんなに落ちぶれたんだから…。こういう時にこそ徳を積むチャンスじゃないか。自分の前世あるいは今の世、あるいは次の代のためにも、いくら苦しくても貧乏でも、今、徳を積むと後世が救われるかもしれないじゃないか」と言うんですね。そこで旦那がなんて言うかっていったら「なんだ、それなら早く言ってよ。私はあなたに気を遣って断ったんだよ。じゃ俺、止めてくるわ」って呼び戻してくるんですね。自分が凋落して女房にもひもじい思いをさせていることに対して旦那は悪いと思っていたのか、かわいそうだと思っていたのかこれ以上迷惑をかけたくないと思ったのか、そんなこともあるのかなぁ…と。
さまざまな雪の表現に、もっとも古くて前衛的な能楽の真髄を観ていただきたい。
この二曲とも共通しているのが、焚火をして温まる場面があるということ。もうひとつが雪景色…というか雪を表現する…『葛城』の場合は、雪の中から現れるときに女性が笠をかぶっているんですね。その笠に雪が積もっています。それから着ているものも白い。これは雪がかかっている、という表現なのかもしれない。それから標(しもと)ですけどね、薪を背負って雪の中を杖をついているんですが、薪にも雪が積もっている…実は綿でつくっているんですけれども。能の場合、雪が降っても雨が降っても表現せずに、想像力で見ていただくんですが。
『葛城』の場合は、笠にも雪がかかっているし、薪にまで細かく雪がかかっている。その姿を見ると、一面雪のところを静かに踏みしめて来るんだな、ということがスーッとわかるんです。演出的にも優れた曲だと思います。
『鉢木』は、盆栽に雪がかかっているんです。これも綿なんですけどね。手入れもあまりしなくなってきているのか庭に置いているということもあるんですけれど、雪をかぶったまま登場してくる。そして、薪にするために雪を取らなきゃいけない…ということで雪を打ち払うシーンがあって、それで木が現れて、木を切り刻もうとするときに躊躇するんですよ。「よくよく見ると、また美しい。面白い枝振りだ」といって躊躇する。「見れば面白や、いかにせん」という文句がある。
本物の蔦、花人がつくる盆栽、雪の演出…満次郎らしい演出を随所に。
雪というものを表現するのは綿ですけれども今回、実は、人と同じことをしたくない性質なので葛城の女神というのは後半、頭に蔦がからまった姿で現れるんですが普通は造花の蔦を使うんですが、本物の蔦を使って…チラシの写真もそうなんですが、本物の蔦を頭に巻きつけて本当はからだにまで巻きつけたいんですが、そこまですると怒られますので。あるいは『鉢木』の造り物でも梅桜松の鉢木をお花の専門家に造ってもらうだとか、雪も綿にするかどうか、わからないですね。もっと現代的な雪になるかもしれません…。何が飛び出すやら、ご期待ください。