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今様 “鬼” 対峙 辰巳満次郎 × アレックス・カー 今様 “鬼” 対峙 辰巳満次郎 × アレックス・カー 今様 “鬼” 対峙 辰巳満次郎 × アレックス・カー
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【 第一話 】 =辰巳満次郎 =アレックス・カー

畏れられながら、慈しまれている。憎み切れない人間性を持っているのが鬼。

 鬼というのは、日本独特の考え方で、日本にしか存在しないような…。西洋の悪魔、デビルとは違った意味で、完全な悪ではない。悪の部分もあるし、そうじゃない善の部分、神の部分があるかもしれないし、宇宙や大自然、そういうもの全てを含めたものの中に鬼が居る。また、小さなところでは、人それぞれの心の中にも鬼が潜んでいるのかな。能の中の鬼というのは、平安時代の頃からの考え方が、未だに引き続いていて、例えば、退治される鬼と鎮められる鬼と2種類あって。今回も昼と夜とテーマを分けているんですけど、(昼の部の)退治される鬼というのが、一方から見れば悪だったかもわからないけれど、必ずしも悪とは限らないわけですよね。

対談写真

(西洋的には鬼は)ゴーストっていう方がいいと思うのですね。僕は、四国の山奥の祖谷っていうところに家があって、その辺りには妖怪話が昔からあって子泣き爺のもとは、祖谷なんですね。今年の1月に岩手の遠野に行って来たんですね。「遠野物語」柳田國男の書いた、とっても有名な本で。座敷わらしだとか、いろんなものが出てくるわけですね。妖怪というものが、いろんな面白いかたちをとって、結構コミックなものもあれば、ほんとに怖ろしいものもある。西洋でも、ゴーストストーリーとかフェアリーテイル、お伽ばなしの妖精で…。妖精の中に例えばウィッチっていうのが出てくるじゃないですか。魔女だとか。あぁいうのが日本の鬼に近いと思いますよ。意外と人間性があるし、独特のカラーがあるわけですね。

 例えば人里離れて山に住む修験者や山伏など特殊なチカラをもった者たちも、昔の日本では鬼のジャンルの中に入っていたらしいんですよ。特殊な能力をもっているもの…そういうもの全てを鬼というふうに表現していた。人間離れしていて、不思議で怖ろしい存在も鬼と呼んでいたようです。

 特殊な能力、超能力。マジック、魔法的なもの、つまり一種の不思議なパワーがついたものが、ゴーストとか妖精、魔女じゃないですか。やはり、そのような理由でも日本の鬼と似通っているところがあると思うんですよ。ある意味で鬼の世界って超能力の世界だから。超能力への憧れ=鬼への憧れ、というものもあるかもしれないね。

 ある意味、鬼は、本筋から外れたものですね。何かの理由で。だから、退治されるとか、鎮められる対象になってしまう。

 しないと、人間が苦しいわけね。ほっとくわけにいかない。だから、やっぱり退治しないといけない。

 ところで、今回の大震災なんかもそうですけど、一瞬にして全てを奪ってしまう…そんな、ひれ伏さざるを得ない大きなチカラを持つ自然、それも鬼として考えられるのかな。日本の場合は、自然を淘汰するとか征服するという考え方はなくて、畏れながら慈しんでいる。理不尽な目にあっても、仕方がないというか、受け入れる。ともに生きて、亡びるときはともに滅びる…という考えがあります。こういうものも含めると、実に広い意味で鬼が存在しているんじゃないか、と思っています。

 鬼の発想自体は、洋の東西や時代を問わず普遍的ではないかと思うんですね。ただ、ある意味、どこにでもある鬼的なものを一段と洗練されたかたちで残しているのが日本なのかもしれないね。

 日本人の考えの根本には、大自然、大宇宙の中に鬼というものがいるっていうことですね。人の心の中にも必ずいる。普段は抑えているけど、必ずいということです。

ほんとは好きで好きで仕方がなくて、恨みではなく、肯定的な気持ちが強すぎて鬼になる。

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 もうひとつは、生きてる人間が鬼と化してしまう。例えば、恨みであるとか、悲しみとか嘆きとかというもので、鬼と化す。今回の満次郎の会でいうと夜の部はそういうテーマなんですけど。

 仏教的な考えでは、なにかの感情を持ちすぎ、執着がいけないことになってるじゃないですか。だから、好きということは必ずしもイイことじゃないんですね。その辺は仏教的な思想が入っているような気がして。

 執着、執心なんて言葉もありますけれど、これによって成仏を妨げる…。仏教的な考えでいうとね、恨みとか強い恋しさとか、そういうことで、いつまでも成仏しないで彷徨うという。葵上(という作品)なんかを見ると執心を持っているから鬼と化してしまう。六条御息所は、最期は祈り伏せられて鎮められて気持ちが成仏していくっていうようなことなんですが、実は成仏してないんじゃないか…

 してないと思う。日本舞踊とか座敷舞とか地唄舞とかの葵上は、成仏のところまで持っていかない。だから、内掛けを打って…それで終わり。成仏はない。だから、あれは本来救われない場面だと思う。

 能は、表向きは成仏したといっているけれど、観客からすれば、あんな不自然なことは無いわけで…。実は、観客にはそんなもんじゃ成仏できないというようなことを暗に訴えているのかな…と最近とみに思っています。普通なら成仏したら、めでたい話。けれども能では悲劇中の悲劇で終わるんですね。

強くて、悪くて、怖ろしい存在でありながら、必ずどこかに哀れさが残る…それが鬼の魅力。

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 例えば退治されたり成敗されたりする鬼は、殺された時、単に「やっつけた!めでたし、めでたし…」とはなりません。必ずどこかに少し哀れさが残るのです。
例えば『大江山』では、酒天童子というお酒の好きな鬼が出てきます。彼は、昔、お坊さんに痛い目にあったんで、それから「お坊さんに逆らいません」という誓いを立てたんです。だから、実は自分たちを退治に来た源頼光たちにも、山伏の姿をしていたので、その約束をちゃんと守って手出ししなかった。手出ししないどころか、自分の隠れ家を見つけられたものだから、「私はもう終わりだ」と、歎き悲しむくらいなのです。それに対して、山伏に化けた頼光は、「いやいや誰にもしゃべりませんから安心してください」なんてことをいっておいて、後で殺してしまいます。どっちが鬼だ…と私は思います。ついに殺される、という間際に酒天童子は、「お前達は、情けない。あんなに約束したのに…」というと、頼光は「お前達にそんな正論を吐く資格はない。お前は鬼なんだから、世の中の迷惑なんだから退治するだけだ」と言い放ちます。山にひっそりと棲んでいたのに、殺されてしまった。どこかに少し哀れさが残ります。

例えば、安達ヶ原『黒塚』は、人間が鬼となってしまった東北の伝説が基になっています。あるお姫様がいて、その養育係の乳母が、原因不明の病気になったお姫様を治すためには女性の生き胆(肝臓)を食べさせれば治るといわれて、旅人を泊めては殺して食べさせていました。あるとき、殺した女が生き別れた実の娘だということに気がついて発狂してしまう。その後、お姫様も死んでしまって、そのままずっと旅人を泊めては、殺し続けていました。でも、自分の行状がいやでしょうがない。自分が鬼であることが嫌でしょうがない。どうにかして救われたい、悔い改めたい、と思っていました。あるとき、山伏がやってきました。「これで自分は救われる」と思って、山伏を泊めました。真夜中になり、寒いので乳母は山に薪を取りに行きます。「私の寝室を見ないでください」と言い残して出かけます。実は、寝室には死骸がいっぱいあったわけですけど…。しかし山伏は約束を破って見てしまいました。罪を犯したのは、実は山伏の方です。乳母は、鬼となって追いかけます。その鬼は、背中に薪を背負っている。ということは、最初から殺そうと思っていたわけではない、ということがわかる。裏切られたから鬼となってしまったんだっていうことがわかるわけです。結局、この鬼は祈り伏せられて消え失せます。
このように能は、単に勧善懲悪とか、宗教的な教えだけじゃなくて、鬼の哀れさ、悲しさ…、そういうところも表現しているのだな…と思っています。

 人間にとって、鬼の世界は、善の世界よりずっと面白いんですよ。だいたい人間は、悲しみ、苦しみ、悪いこと…そういうことについて興味があるものです。というのは、私たちが生きてる現実の世界は、そういうものに溢れているから。また、目の前にある壁みたいなものを乗り越えることができなくて、負けてしまったとか…。一種の悲劇、そういうものも人の心を打ちます。例えば、ダンテの『インフェルノ』。彼は、地獄を書いたけれど、極楽も書きました。でも、極楽を読む人はあまりいません。考えてみてください。一日中ハープの音楽を聴きながら、ぼーっとしている話ってどうでしょう?面白くないですよね。それに引き換え、地獄は、カラフルで楽しいものです。特にダンテの地獄って面白くて、ウィットに富んでいます。ウィットとかコミックという要素も極楽には、なかなか合わないですね。でも、地獄は…日本の地獄絵などを見ても結構コミカルなところがあったりして、面白いですね。このような意味で、人間の心には、悲しみや苦しみ…つまり鬼の部分を見てみたいという思いがあるんでしょうね。能をはじめ、芸能には、鬼がいなくてはいけない。なんらかのかたちで、毒の部分が必要だと思いますね。

いかがでしたか。次回は、お二人に伝統芸能としての能の世界観や現代における能の役割などを語っていただきます。乞う、ご期待。

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Alex Kerr(アレックス・カー)
東洋文化研究者・NPO法人「チイオリ・トラスト」主宰
1952年米国生まれ。1964年家族と共に初来日。エール大学、英国オックスフォード大学卒業後、1977年より京都府亀岡市に在住し、日本と東アジア文化に関する講演、執筆等に携わる。2004年(株)庵を設立し取締役会長として京町家の再生事業、景観コンサルタント、 日本伝統文化体験研修事業を開始。2010年に会長職を退職。その後はNPO法人「チイオリ・トラスト」の理事長として日本伝統家屋の修築保存活動、及び日本伝統文化体験研修事業を続行。著書:『美しき日本の残像』(1993年新潮社、新潮学芸賞受賞)、『犬と鬼』(2002年講談社)、Bangkok Found (River Book, 2009) その他。
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