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園楽山×辰巳満次郎 対談 日本文化の源流を求めて
なごみの心、道という概念。日本文化は、世界の平和を祈る存在。

=園楽山 =辰巳満次郎

第五回という節目に、襟を正す意味も込めて「翁」に挑む。

:今回、5年目を迎えるということで…。5年というのは大したことないのかもしれませんが、一つの区切りというか節目だと思っておりまして。能の世界ではあまり例のないリサイタルというか、個人的な催しというのは、はじめることも続けることも難しくて。業界的にも5回続いたら” 目標達成”みたいな雰囲気があるんですよ。
一つの節目ということですから、5回目をどうするかという時に、伊勢の遷宮ということもありますし、「儀式」あるいは「祈り」というものを取り上げてみようと思ったんです。もともとは、お花もそうだと思うんですけど、室町時代までに大成した芸能・文化は、祈りから発生しているのです。それ以降のものは、人間的な要素でありますけど。それ以前のものは、やはり、祈りの時代から続いていたと思うんですよね。そういった意味で能のルーツである祈りというものに立ち返って、能のできる前からの儀式でもある「翁」という曲を選んだのです。

:「翁」は、能が大成する前からある演目なのですか?

:そうなんです。この曲を選んだのは、第五回という、めでたい座を祝うということもありますけれど、それだけでは無くて、自らの襟を正すという意味もあったんです。今回は「翁付き高砂」といいまして、「翁」と「高砂」という曲を同時に続けて演じます。「翁」は神様の曲ですが、さらに他のものと比べて特別な扱いをされている「高砂」を加えるのが最も古式豊かで儀式的な演じ方なんですね。そんな能の原点というものを、みなさんに観ていただきたい。そして、自分も原点に立ち返って勉強したいと考えたんです。

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:もともとお祭りは、神様に捧げるものがあって、そのあと直会みたいな形で神様といっしょに楽しもうという、二部構成でひとつだったんじゃないでしょうか。凛とした部分と解放された部分と両方あってお祭りかなということを感じてて…。特にその凛とした神様に捧げるという部分が、現代社会ではおざなりにされてしまっている。その辺を伝えていただけたらな、と思います。

:そういう意味で、昼は、「儀」ということで儀式的なことをメインに組み立ててさせていただきました。一方、夜の部は、「宴」ということで、饗宴的なものでまとめました。宴にゆかりのある曲目ばかり、めでたい曲を、儀式的な曲ではないものを集めて…。
楽山先生がおっしゃるように、祭礼というのは、結婚式あるいは神社仏閣の祭典でもそうですけど、儀式とそのあとに饗宴がありますよね。今回は、二部構成でこの祭礼を再現したかったのです。祭礼の寿ぎというものを祝言と歌舞によって行わせていただこうということを前々から考えておりました。

能もいけはなも、もともとは神様への奉献からはじまっている。

:さきほども言いましたが、「翁」という演目は、能が大成する前からある儀式で、もともとは神様への祈りから発生しています。その点では、楽山先生の青山御流のお花も同じだと思うのですが。実は、室町時代までに大成した芸能というか文化は、神様への祈りから生まれています。
大昔は、「翁」を春日大社をはじめ、いろんな神社で専門の家柄の神職たちが奉じていました。神職に代わって、能役者で最初に「翁」を奉じたのは観阿弥・世阿弥だと伝えられています。室町幕府の足利将軍が、舞う権限を彼らに与えたのだそうです。以来、能役者には、奉納とか鎮魂といった意味において、神に仕えるという意識が心の奥底に根づいています。

:確かに、いけはなも、とても能に似ていますね。今朝も丁度、庭にある榊を神棚に挿してきたのですけど。榊を活けるというのは、うちの青山御流のかなり特徴的なところなのです。私は、いけはなの作家として榊を活けたわけではなくて、神棚にお供えしたわけで。それの延長上にいけはなが存在しているのです。 ところで、「翁」の登場人物はお爺さんですよね。そのお爺さんが神様なのですね。

:能では(能ができる前からそうだったんですが…)白いお爺さんと黒いお爺さんが出てくるんです。白いお爺さんが我々シテ役が演じるんですけど、白いお爺さんが祈ることは、「国土安穏」「天下泰平」、いわゆる「平和」というようなことについて代表して祈るんですね。

:白いお爺さんが満次郎さんの役…。

:黒いお爺さんは、現在は狂言方が演じますが、三番叟っていうんですね。こちらが祈るのは「五穀豊穣」なんですね。どちらかというと白い翁のほうは、芸能的にも舞、精神的な舞ですが、三番叟というのは、踊りながらジャンプしながら…いわば土着の農民とかというようなイメージですね。耕したり種を蒔いたり…揉ノ段と鈴ノ段というのがありましてね。種を蒔いてそれを、早く出てきなさいと鈴を振って祈るような所作をします。三番叟というのは、いろんな芸能として継がれていますね。

:いずれにしてもお爺さんが登場する…。「神さびる」という言葉があるんですが、清められているんだけれども、荘厳な感じがする。光るような美しさじゃなくて、沈み込むようなすごい美しい状況のことをこう表現することがあるんですね。この二人のお爺さんは、まさに「神さびる」につながりますね。
それと、昔は年を取ることが憧れだったはず。思慮深い年寄は、若い人からみれば早くああなりたかった存在なんです。絶対そうなんですよ。若いのは自慢でも何でもなかったんですよ。ちょっと前まで。それが、年を取った人は腰が曲がったりしていても、丹念に丁寧に清らかに…庭を清める作業をしますよね、庭を掃いている。その姿は、まさに「高砂」じゃないですか。あんな老人になりたいという憧れが「高砂」を、おめでたい曲にしていたんでしょう。でも今は、掃除する老人を見たって「高砂」だと思わないじゃないですか。あの爺さん大丈夫かなとか、転ぶんじゃないかとか、よせばいいのにとか、まったく尊敬されない対象じゃないですか?そんなのここ100年ですよ。100年までいかないかもしれない、戦後のことですよ。年取った人が汚く見られて邪魔扱いされたのは。もうちょっと前は、そんなことなかった。

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:かつては、歳を取るということに価値が見出されていた。年寄りということで尊敬されていた。つまり神様だと思われていたんですね。

神事には、心身を清らかにする正しい精進潔斎を行うべし。

:「翁」の大きな特色は、最初、能役者は人間として登場するんですよ。つまり普通の能は面をつけて出てきますけれど、「翁」に限っては、白い面と黒い面を入れた面箱がまず舞台に上ります。鏡の間では、祭壇を作って面をご神体として奉り、能役者は、お神酒とお塩と洗米とをいただいて、そして切火をして、幕から出ていくんです。

:面が神様なんですね。

:神職として謡うんですけど、途中で面をつける。神になる。そして、神として国土安穏、天下泰平を祈るというか寿ぐ。それが終わると、面を取ってまた人間に戻ります。人間のときには、見所に向かって深々とお辞儀をするんです。そして人間に戻った後も…。誰に向かってお辞儀をするのか、それが分からなかった。書付にも残っていなかったんです。五年以上前のことですが、私が初めて「翁」を演じるときに先生と偶然お目にかかることがあって、精進潔斎の仕方とか考え方ということを教わって、分かったことがたくさんありました。

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:神事において「祝う」ということは、なごやかな心で神様に感謝する、祈るということなんですね。だから、なごやかになるために日頃の穢れを全部落とす。これが精進潔斎なんです。荒ぶった心では「祝う」ことはできないのです。自分がどれだけ心静かにいられるか、静かに強くいられる状態になることが大切です。水の鏡ではないですが、揺らいでいたら何も映らないので…。でも、精進潔斎ってやわらぎなんです。そうじゃないと続けることができません。あまりに厳しい禊とかを要求しているわけではなく、心の状態を平穏に保つために行うのですから。だから、寒中に冷水をかぶって…なんていうのは、かえって心が荒ぶるから、まったく禊にはならないのです。あくまでも、なごやかな心を持つことが精進潔斎の目的ですから。

:私たち能役者は、たいていの場合、この精進潔斎を形式的にしか行っていないのが実情だったんです。精進潔斎の理由がわからないので正しく伝承されていないんですね。今、楽山先生がおっしゃったようなことが私たちには伝わっていなかった。
それで、誰にお辞儀をするのか?ということを考えていて…。神様にお辞儀しているんだとか、もっと下世話な話では、お客さんにお辞儀してるんだよ、とか。あるいは、昔、そこで将軍が見てたからとか、もっともなこと言うわけですよ、みんな、思いつきで。でも、楽山先生にお話を伺って、森羅万象にお辞儀をしているという答えがでたわけですよね。そして、祈りを捧げる人間というのは、伊勢もそうですけど、自分のことを祈っちゃいけないわけでしょ。みんなのために祈るわけで。ということは、その代表たるものは心が平安でなければいけない、心の平安を保つためには精進潔斎をしなければならない、ということを教わったら、答えはそれしかないなと思ったんですね。そんな書付は昔から、この礼は森羅万象に対してやるべしなんてこと書いてないわけですよ。どこにも書いていないけど、そうやって紐解くとどんどん分かってきたわけです。今では、能役者仲間に、伝道師のように精進潔斎の意義を伝えるようにしています(笑)。

巧く演じようとしてもダメ。
大切なのは我を捨てて無心になること。

:例えば、榊を活けるために、榊は一俵単位で仕入れます。その中から、活けるのにふさわしい、たった三本の榊を選りすぐるのです。そして、葉っぱを一枚一枚拭いて、いいか悪いかを見るのです。なにを活けようかと考えるのではなく、きれいにするだけの時間を過ごします。

:無心になろう、ということですね。

:その時間が自分にとって有意義なんですね。活けている時間よりも活ける前、見てるときの方が好きなんです。枝を見てるときの方が。

:心が静まるという感じですか?

:静まるというより、ただ花があって自分がいるだけの話です。
一人のリスナーとして神様の言葉を聞いてるみたいな受信状態、充電なんです。聞き終わって演じるとき、つまり花を活けるときは表現する側になるんで、放電になります。

:能の場合、自分で巧く演じてやろうとか思うとダメなんですよ。評価を高めようなんて思うと、もう最悪なんですね。大失敗してしまいます。

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取材協力:梢 - パーク ハイアット

:花も同じ…。清らかに活けようって思って清らかに入るんじゃないんですよ。素直に淡々と心静かに無駄なものを省いてきれいに整えること…心穏やかに丁寧にやることで、清らかになる…。清らかにしたいと思って清らかに活けられるなんてことはないの。一枚一枚拭いてるところが、清らかになる作業なんです。 心が静まってるから静まった花になるんであって、静まってない人が静まった花活けられるわけがないし。静まってない人は静まった演技できるわけないし。たぶん自分の心の先行きっていうのかな。人は神になりようがないんで、神になろうと思うと「翁」は演じられない、逆に離れていってしまう…。

:普通の能は、草木花の精とか女性とか老人とか少年とか、それらになろうと思うんですよ。普通の能は全部、鏡の間の鏡の前で、自ら面をつけるわけですよね。鏡に映った面をいただいた自分の姿を見てその役に入り込むんです。自分はこれになる…そう思わなくても、そのキャラクターになっていくんですよ。ところが「翁」は、古い作法なのかもしれないけど、舞台上で面をつける。舞台には鏡がありませんから自らの姿を見ないわけですよ。見ないでやるっていうのが、実は大事なんですね。

:それは、我をなくすということなのかもしれませんね。それは幽玄と通じることなのかもしれません。いわば、能というのは、現世と来世や過去世との間に見えない鏡があって、その中に役者さんがいる、というようなイメージでしょうか。そういえば、後ろに立っている鏡板というのは、その名の通り、鏡なんですよね。

:ええ、春日大社にある「影向(ようごう)の松」を映しているという鏡ですね。松は、古来より神様が降りてくる「依代」と考えられていて、それを描いたと伝えられています。

:いけはなも能楽も同じだと思うんですが、やっぱり基本に神様ごとがあるのではないかと。だから、歌舞伎などの芸能とは、全く違う。スタートも違うし、発達の仕方も違うし…。ということは、逆にたどっていくと精神的なもののたどり着く先は全然違うのだと思うのです。それが「無我」ということなのでしょう。神様に捧げることで、神様の境地に一歩でも近づくということかもしれませんね。

:宗教じゃなくて…、これ理解できる人がどれだけいるかわからないけど…何々教の神様の話じゃなくて、八百万の神。日本人が昔から持ってる山だったり太陽だったり、つまりは森羅万象。自分の幸せのために祈るのではなく、森羅万象の安らかなることを願って、謡ったり舞ったりしはじめたわけですものね。

ゴールがないのが「道」。
日本独自の概念を世界に伝えたい。

:私の場合ならいけはな、満次郎さんなら能…日本文化には、世界平和のために世界発信していい何かが、きっとあるんですよ。
例えば「道」という概念。剣道の場合、紐が緩んでいるだけで、もう負けだっていうんです。出てくるところから舞台に登って降りるまでを、みんな見ている。それが、道だ、と。私が道の概念を好きなのは、お花だとか、和歌だとか、舞だとか、自分の好きなことを通して人格形成につながっていることなんです。 趣味を通して自分の人格形成までたどり着く…例えば、お能ならお能を通じて素晴らしい人格形成ができる。お花の道、柔の道、剣の道、和歌の道、舞の道…あらゆる道の概念の中にそのような考えが含まれているから、一芸に秀でれば六道に通ずる、と言ったんですね。ひとつのものが分かると、あらゆるものが共通しているということが理解できる。それで、道という概念があって、これは、日本にしかない概念なんですね、多分。これをどう発信するか、どう受け取るか、が大切だと思っています。

:そういうことってあると思います。いけはなも能も、そういうことに有効だと思います。背景に歴史に培われた精神的なものがありますからね。

:道にはそもそもゴールがないんですよね。例えば、いけはなは、十年教えても二十年教えても、自分でもそうですけど、キリがないんですよ。ゴールがないじゃないですか、道だから。マラソンなら42.195km走ればゴールがあって、早ければ勝ちですよね。でも、道だからいつまでたってもゴールがない…そうすると、問題は「歩み方」になるんですね。速く歩む必要ないじゃないですか。そうすると私は「大道」が好きなんで、真っ直ぐ大きな道を歩んでいって、ゆっくり歩んでいって他人より半歩前に出ればいいと思っているんですね。決して険しい道に行こうと思わないわけ。人が少ししかいない険しい道ではなくて、みんなが歩める道がいいし、しかも門がない「無門」がいい。「無門大道」…ま、人それぞれの進み方があるんですけれども、そのときに前のめりの姿勢の歩み方よりも背筋を伸ばして真っ直ぐ前を向いて歩むというような姿勢に価値があると思うんです。だから、一生かけても続けることが大切になってくる。
日本の場合、連歌だとか、和歌だとか、おはじきだとか、あやとりだとか、続ける文化がたくさんあるんですよ。蹴鞠とかもね。ゴールがなくて、いつまでも続くものだからこそ、今の歩み方に価値を見出すことが大切なんです。勝ち負けじゃなくて、姿勢に価値があるんですね。だから、勝っても負けても意味がある。そういう風に思うのが道の概念だと信じています。

:私は、「満次郎の会」を10年やり続けたいと思っています。ちょうど50歳の時にはじめたので、10年やって60歳まで自由に運営させていただいて…60歳から違うかたちで、またやりたいなと思っているんですが(笑)。やっぱり、ゴールがない方がいいですよね。ゴールがあるっていうことは、そこで終わっちゃうわけだから。私自身、続けるためにやってますからね。まさに「道」ですね。

園 楽山(その らくざん)
昭和20年、東京生まれ。武蔵野美術大学卒業。25歳よりの華道修行の後、昭和五十三年、日本で唯一、王朝華道の流れを伝える青山御流の二十八世家元を継承する。出雲大社や明治神宮ご神前での献花式を行うなど、公家文化の再興に尽力している。著書に『青山いけはな写真集』、『青山御流活花手引種 前編・後編』(復刻版)など。平成元年に昭和天皇大喪儀祭官、平成2年に即位式および大嘗祭に関する諸儀式の委嘱掌典として宮中祭祀に奉仕、現在も委嘱掌典を務める。
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