【 第三話 】 満=辰巳満次郎 ア=アレックス・カー
何度も繰り返して楽しめるのが伝統芸能。そして、伝統芸能は日常生活にこそ活きる。
ア 伝統芸能の面白いのがね、一回観ても観たってことにはならないことなんです。観れば観るほど、それまでわからなかった部分が観えてきたり、普遍的な深みが味わえたり…。何度も何度も楽しめる。
満 繰り返し上演し、繰り返し観ることができるのが、伝統芸能。
ア 昔から謡曲だとか長唄なんかが大好きだったんですが、若いころは、どれを聞いても同じに聞こえたんですよ。いわゆる“通”と呼ばれる人たちは、「これは、何々だ」ってすぐにいい当てるんだけど…。僕は、どうにもわからないんです。いろいろ悩んで、気がつきました。「こういうものは、からだに入れるものであって、一生懸命に勉強するもんじゃないんだ」って。そこで、当時はテープだったんですが、謡曲なんかを録音したものをいつもBGMとして流してみたんです。聞こうともせず、憶えようともせずに、なんとなく流してみた。それを何年も続けたら、からだにすうっと入ってきた。今では、あの笛は誰々が吹いているな、なんて聞きわけることもできるようになった。からだに入っているわけです。昔の人たちは、しょっちゅう能を観ていたわけだから、それくらいのものが自然に身についていたんじゃないでしょうか。
満 文化…特に伝統文化とのつきあい方って、そんな自然体がいいと思います。
ア やっぱり、文化は日常。日常生活の中に生きているものだと思います。京都でね、たくさんの人たちが、「みんな着物を着なくなった」って嘆いています。着物が似合わない、着物を着ても落ち着かない街だと、誰も着物を着たいと思いませんものね。着物が溶け込む、着物を着たくなるような街をつくったら、きっと着物は伝統として残るんですね。つまり、どう日常生活をつくるか、ということだと思うのです。
満 年数がかかっても、日常生活の中に伝統文化を根付かせていきたいものですね。なんとか日本文化の中に伝統的なものを取り戻していきたいな、と。これから、もっとね。ある意味、3.11の東日本大震災以降、伝統的なものを日常生活に取り戻そうという雰囲気が芽生えているようにも感じているんですが…。
ア あるのかな~。
満 あまりにも突然に多くの命や財産など大切なものが奪われてしまったあとに人間って人って何が大事なのかなぁ…と、真剣に考えることになったと思うんです。
ア 考えてるんだろうか?震災後しばらくはそうだったのかもしれないけれど、落ち着いたらもう、いつもの日常生活に戻っただけであって。ほんとに変わったのかなぁ。被災地はすごいでしょうけど…。
満 多くの人たちが、これまで何か欠けていたのを気づかずに生きてきたけれど、今回の大震災をきっかけに、欠けてることに気がついたと思うんですよね。欠けていたものを補うやり方は、まだよくわからないのだけれど、確かに人それぞれ何かを考えたと思います。この機会をやっぱり何かうまく活かさないと…。きっと、鬼が出てきたんですよ。今こそ、鬼を退治するものが動いていかなきゃいけないんですよね。
韓非子のいう奇抜でグロテスクな鬼たちが、現代社会に氾濫しているような気がする。
満 鬼に関しての意味がちょっと違うかもしれませんけど。アレックスさんは『犬と鬼』という本を書かれていますね。
ア 「犬と鬼」というのは、韓非子の話なんですね。その中で、皇帝が宮中の絵描きに「何が描きやすいか?」と聞くと「馬と犬が描きにくい」と答えるのです。「鬼と魑魅魍魎が描きやすい」というんですね。どういうことかって聞くと「犬のような自分の身の回りにある素朴なものは、なかなか思うように描けない。忠実に描くことができない。逆に鬼というグロテスクな存在は、想像力があれば、子どもでも簡単に描ける」と答えたのです。この話が「犬と鬼」のお話。
満 鬼なら勝手に想像して簡単に描ける…。
ア グロテスクで奇抜で大胆なものは、想像しやすいし、描きやすい。この話を最初に聞かせてくれたのは、白洲正子さんだったんです。彼女の玄関先の短冊に書いてあったんですね。「これは何のことなのか?」って聞いたら彼女がね、「小さな壷に花一輪、やってご覧なさい。なかなか、きれいにうまくいかないでしょ。だけど、グロテスクな大きな生け花なら誰でもつくれるの、みんながやってるのよ。よくホテルのロビーとかにプラスティックとか光るものをゴチャゴチャつけて飾っているでしょ…。そんな生け花、鬼だな、と思うんですね。鬼よ。奇抜で派手なものは、楽なのよ。僕だって目をつぶってつくれるくらい。だけど、ちょっとのことで、ある意味このことで苦労するの。それが犬を描くことになるような気がします。 今回、満次郎さんが来るからと思って、いろいろお迎えする花の趣向を考えました。僕は、基本的に家の周りにあるものしか活けない。でも、今、庭には何も花がない。どうしよう…悩みに悩んだ。そして、今朝、庭を探していたら、これがついているじゃないですか(と、おもむろに南天の葉についた蝉のぬけがらを盆に乗せたものを指差す)。たまたま、ここにこれがついてたんですよ。こういうものをちょっと出してみようって。意外といいかもって、ね。
満 これは能では“空蝉”っていうんですよ。こんなこと、なかなか今の日本人には、できないことですね。
ア いやいや、日本人はクールですよ。今まで、こういうことしてきたんですよ。これこそ日本的だと思う。でも、それができないようになっているような気がする。それを今の時代のことにたとえたら、例えば、電線埋設ということ先進国はみんなやってるんだけど、日本だけはしてないですね。話題にのぼりにくいから面白くない。それより何百億かけて大きな市民ホールを作ったとかだと話題になる。ほら、こんなにやったんだという表明ができる。たとえ、それが環境破壊につながったとしても…です。それが鬼だ、とこの本に書いているんです。つまり鬼は怠け者の道なんですよ。楽な方に流される。苦労しないで、とにかく奇抜で大きなものをやれば、それがよろしいというのが楽なんです。白州さんが言う、あるいは韓非子の言う「鬼」の意味とはこういうことなんですね。犬が難しい鬼がやりやすいって意味なんですね。
満 そういう意味では、まさに鬼が氾濫してますね。奇抜で、あまり考えずに簡単にできる。そういうものが、アレックスさんの言ってる鬼ですね。能の鬼とは、また違うと思うんだけど。でも、「鬼の中に入るな」っていうのはわかりますね。
ア 退治したり鎮めたりしないと、人間が苦しいわけね。放っておくわけにいかない。だから、やっぱり押さえつけておかないといけない。でも、きっと、また出てくるんですね。
満 鬼って、そういう意味においては、癌細胞みたいなものかもしれないんですけど、ね。
伝統を踏まえた上での新しい挑戦が始まっている。それこそが、現代の鬼退治かも…。
ア 最近ね、いろんな分野で、古い伝統のものを現代的なかたちで活かそうという動きがある。僕は、古民家を対象にしています。長崎の小値賀(おじか)プロジェクト。古民家を5軒ほどきれいに直して、ひとつはレストランにしました。四国の祖谷もやってますね。ここでの仕事は、昔のままに資料館として残してるんじゃなくて、今の僕らが快適に住めるように現代的に直している。今のものとしてね。
満 決して昔のままじゃない。現代にフィットするもの…ですね。
ア 伝統芸能でも、うまく今のものとして伝える試みっていろいろあるんですね。それらは、コンテンポラリーな広がりだったり、クラシックな奥行きの追求だったりするんですが、いずれも現代的な試みを加えながらも、基本的には古典的なんですね。やり方が。で、両方ともある意味で現代に共通する点があって、パワーが両方ともあると思うんですね。そういう、いろんな試みで日本の伝統芸能は、最近ちょっと面白くなってきたような気がして…。
満 能の世界でも、今まであまりなかった、いろんなタイプの新作能だとか、外国人とコラボレーションしたり…そんな活動を随分やるようになりましたね。日本舞踊といっしょにしてみようとかね。そういうものにトライしている人たちが、たくさん出てきたから。そういう意味で面白い時代になっていると思います。 ある意味で古典的なものを現代のものとしてリサイクルする試みですね。かといって昔のものを捨てるとか、まったくその本質を変えるようなことは、邪道だと思う。大切なのは、どこまで本物を残しながら、今の時代に持ってくるか…だと思います。だから、うまく犬を描ける人が出てくるといいなぁ、と。
ア そう、犬が描けるかどうかなんですよ。でも、それが意外と難しい。鬼が出てくるんで…。
満 現代にすむ人々が、次の世代に伝統を伝えていくわけだから。今までの能のスタイルだって、やっぱり変わってきてるわけで…。でも、本質は、変えてはいけない。それを変えてしまうと、伝統でも伝承でもなくなってしまうから。本質を伝えながら、能がいかに前衛的であるかということも含めて、能がどのようなスタイルに進んでいくのかを伝えるためには、いろんな手段があると思うのです。 そのカテゴリーの中には、古典もあり、新作もあっていいと思う。その伝え方も、例えば、能舞台って空間としても建築としても素晴らしいんだけど、そこで観てもらうことはもちろん、それ以外にもいろんなところで能を観てもらっていいんじゃないかと思います。どんな空間にもマッチする演劇、それが能だと思っているので。実は、いろんなところで、できるんですよね。 能楽堂までは、ちょっと足が重くてなかなか行けない。でも、出かけた先でたまたま能をやっていた、お祭りで神楽をやってるのと同じように、たまたま行ったところに、能があれば、新しいスタイルの伝統芸能、伝統文化として受け入れてもらえるんじゃないかとも思います。
ア 昔は、お客様が能舞台に足を運んだっていうよりも、舞台がお客様のいるところに来てくれたんじゃないですか?きっと。
満 そうかもしれないです。
ア 簡単に舞台作って。巡業的にやってたんじゃないですか?お祭りのときとか。
満 まぁ、人々が集まるところ…たとえばお祭りのときに舞うとかね。そういうことも含めてね。
ア 舞台をそこに作るんじゃなくて、ちょっとした空き地を使って、そこにあるものを利用して舞台にするみたいな…。神楽で使い回ししたり…。興福寺の場合は、どうだったんですか?
満 もともと芝生の上で舞っていたようです。
ア そういえば、お父さん(故辰巳孝氏)が芝生で舞ってるのを観たことがあります…ものすごく感動的でした。
満 さっきも言いましたが、舞台や曲目など能の型式は、江戸時代に確立されました。それらは、きっちりと幕府に統制されて、型にはめられた。それが、いい部分でもあるんですけど、固定化する要因ともなった。型の中だけではなくて、「型破り」も含めて、いろんな場所で能の本質を伝えることを、これから我々が考えていかないと残っていかない、と考えています。
ア そうですね。
満 “まちおこし”とまではいいませんが、まちの中にある、古いけれど、いまだに生きてるわけで死んだものじゃない、化石じゃない…そんなものたちを集めて、ひとつの“新しい日本のまち”みたいなものがつくれないものか…と思うのです。
ア 10年…5~6年前までは、多くの人たちが伝統あるものに対して無関心だったように思います。これまでは、そういう昔のものに対して無関心な雰囲気だったけど、最近では、あちこちで変化がみられるようになってきた。そういうものに興味を持つ人が増えたとか、新しいことをやろうとしている人たちが出てきた。いろんな分野でね。その点、面白いな、と思います。
満 心の癒しって、昔から必要とされてきたけど。そういうところに、すごく、目が向くようになった。それは、もしかすると、いろんな意味で病む人が増えたのかもしれない。つまり、鬼がいっぱい出てきたともいえるような気がします。無理やり話題を鬼に戻すわけじゃないですけど…。そういった意味でも、今こそ鬼退治を一所懸命していかなくちゃいけない、と思いますね。
長らくのご拝読ありがとうございました。二人の「鬼退治」いや「鬼対峙」いかがだったでしょうか。まだまだたくさんの今様「鬼」たちが闊歩する現代、みなさんも能鑑賞で、心の「鬼退治」をしてください。では、またお会いするときまで、アディオス!
東洋文化研究者・NPO法人「チイオリ・トラスト」主宰
1952年米国生まれ。1964年家族と共に初来日。エール大学、英国オックスフォード大学卒業後、1977年より京都府亀岡市に在住し、日本と東アジア文化に関する講演、執筆等に携わる。2004年(株)庵を設立し取締役会長として京町家の再生事業、景観コンサルタント、 日本伝統文化体験研修事業を開始。2010年に会長職を退職。その後はNPO法人「チイオリ・トラスト」の理事長として日本伝統家屋の修築保存活動、及び日本伝統文化体験研修事業を続行。著書:『美しき日本の残像』(1993年新潮社、新潮学芸賞受賞)、『犬と鬼』(2002年講談社)、Bangkok Found (River Book, 2009) その他。