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今様 “鬼” 対峙 辰巳満次郎 × アレックス・カー 今様 “鬼” 対峙 辰巳満次郎 × アレックス・カー 今様 “鬼” 対峙 辰巳満次郎 × アレックス・カー
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【 第二話 】 =辰巳満次郎 =アレックス・カー

鬼も正義も意識が薄れてきた現代。デタラメが氾濫し、感動することが少なくなってきている。

 芸術には、毒の部分が必要。

 芸術には必要なんですね。芸術だけじゃなく文学もそう、文学にもそれが無いとつまらない。

 文化的に必要なわけですね。

 毒は文化的に必要なんです。例えば、タイとか東南アジア各国で演じられている仮面劇に『ラーマーヤナ』というのがあります。もともとインドのお芝居なんですが。中でもクメールやカンボジア辺りでは、非常に洗練されたかたちで残っています。『ラーマーヤナ』に登場する役柄は4つあるんですね。男性の英雄と女性のヒロイン、コミック役としてモンキーつまり猿ですね。それと鬼。デイモンっていうんだけど、その鬼は、お客さんが一番楽しめる、一番面白い、一番男性的で武道的な要素を取り入れた、優れた役柄なんです。この鬼の居ない芝居は、あんまりパッとしない。鬼が出て、初めてまとまるんです。

対談写真

 インドネシアなんかにも、そんな仮面劇が多いですよね。とても人間的…。鬼的なものがあるからこそ、人間的に見えるんですね。

 鬼退治のことなんだけど、またタイの話でね。『ラーマーヤナ』の最後のシーンでは、主役のトサカーナが死ぬんですね。戦で負けて。そしてラーマっていうヒーローに殺される場面があるんだけれど、タイでは昔からの伝統でトサカーナが死ぬ場面は、舞台では演じてはいけないことになっています。なぜかというと、トサカーナが死ぬシーンを見せたら国に不幸が起こる、と真面目に思われているから。だから、王様の許可なしでは演じられないことになっているのです。そして、誰も王様に申請する勇気なんてないから、結局演じることは不可能なのです。しかし、ある年、オペラの作曲家で指揮者でもあるタイの友人が、『ラーマーヤナ』のオペラを書きました。昔の伝統じゃないオペラだったので、作品中にトサカーナが死ぬ場面があったんだけど、国の文化庁みたいなところから、ダメ出しが来た。もしそんなオペラを上演するなら劇場を閉鎖する、というお達しが出たんです。アーティストの自由うんぬん…いろんな論議があったんですが、結局負けた。できなかった。そこまで悪は、最後までやっつけることはダメだって…。最後は、どこかに残る。残さなきゃいけない。そんな信仰が、あの国にはあるんですね。

 それは、どういうこと?

 絶対的な白黒をつけないということ。非常に東洋的ですね。また、タイ人的でもある。いつも、政治的な世界でも、負けた反対派を完全にやっつけない。彼らは。どこかに取り込むとか、残すとか、そういう手段を取るのです。考えてみれば、日本もそうしてたじゃないですか。関が原の後。外様大名をちゃんと残したよ。完全に全部が全部、100%やっつけることは無かったんですね。

 アニメの世界ですが、アンパンマンにはバイキンマンという悪役がいるけど、完全にはやっつけない。作者のやなせたかしさんがいうには、「完全にやっつけないのが自然の理」ということなのだそうです。いわば、光あれば陰や闇がある、ということなのでしょうね。両方がそろってこそ世界が成り立っているのです。
ビンラディンが暗殺されたときに、NY市民が万歳して、涙流して「ビンラディンが死んだ。彼を殺した」って喜んでいるのを見てショックでした。なぜ、人が死んだことにあれだけ喜べるのだろうか?って。こんなふうに感じるのは日本人的かもしれないけれど…。罪はあるけど、亡くなったのだから、まずは手を合わせてあげようよ、みたいな考えが根本にあるのです。

 ほんとね。ないといけないね。アメリカの中でも違和感、感じた人は多いよ。あれは、全国民じゃないね。同感ですよ。

 人って、光と影のどちらも見ながら、そこにグラデーションをつけて、バランスを取って生きてきたんじゃないか、と思うんです。でも、多くの人が光ばっかりを見ようとして、ゆがんできているような気がします。

 光ばっかり見ているとはいえないかもしれないのだけれど…。光も暗闇もどちらも軽くなったよね。どっちもデタラメっていうかね。どっちも感動しなくなった。

 光と影のくっきりしてる部分っていうのは無くなってしまったのかなぁ。光でも弱い光…みたいな。

 暗闇も弱い。強烈なパワーのある暗闇がなくなってしまった…。

対談写真

 光を求めるあまり、純白から漆黒へのグラデーションの真ん中の、ぼんやりとしたグレーゾーン辺りだけで生きているみたいな…。ここに居ると安全だ、とか、他人から恨まれない、憎まれない、と思ってそこに居続けているような。人とうまくコミュニケーションとるために、あるいは、クレームをうけないように、と無難なところに留まっているみたいに感じるときがあります。

 それに、哲学、あるいは宗教的な信仰なんだけれど…そういう信仰が社会から薄れていくとよくないのかもね。特に伝統芸能の芯であった説教的な部分や哲学を鍛える深みがなくなるじゃないですか。何もかも、飾り、遊び、面白ければいいってことになってしまうっている。そういう信仰的な問題もあると思うんですね。

 宗教と信仰は、また違うと思うのですが、信仰を表すことは真っ向くさくて、今風にい言うとウザいとかダサいとか、思われているように感じます。でも、そうじゃなくて、人間が本来もっておかないといけないものを、誰が伝えて誰が残していく?残すべきものが今、伝統という言葉でくくられてしまって、特別視されててる傾向にありますね。そういうことって、決して特別じゃなくて日常にあるべきことなのに…。

「序破急」という人間が本来持っているリズムに基づいて、一日の能の演目は決められていた。

 能は、妖怪的な話をたくさん残していますね。ぼくの師匠に当たる人がよく言っていました。人間は直感的に何かを感じるものだから、きれいなものだとかハッピーな世界ばっかりじゃダメ、と。例えば、鬼や幽霊が登場しない人間的な能でも、深い悲しみとか、そういうものを伝える作品が多いじゃないですか。何もかも「めでたい」というものは、あまりありませんね。

 神様物は、「めでたい」ものになっていますね。これは、つまり、メリハリを考えたんでしょうね。幸せ一辺倒のものに偏らないで、いろいろ見ていただこうと…。苦しみとか悲しみ、逆に幸せとか楽しみ、ありがたみとか、いろんな全ての感情を表現しようとしたのが能のスタイルだと思うのです。それが、能のやり方。それで簡単に分けると「神」「男」「女」「妖」「鬼」の5種類。神様、男、女性、物に執着する、鬼…そういうジャンルに分けてできあがったのだと思います。

 日本の演劇では多いですけれど、あんまり世界にはないでしょ?きっちり分けてつくったり…。これは、いつの時代から、そういうわけ方になったんでしょう?学者たちが最近になって分けたんじゃないかと思っていました。もっと前からあったんですか?

 わかってるのは、室町時代。もうちょっと前からかもわかりません。能は、もっと前の鎌倉、平安からありますから。でも、少なくとも室町時代には、そうなっていました。一日の「序破急」原理に基づいて順番をきめたのでしょう。一日のリズムにあわせて、朝のすがすがしいときには神様物、日が高くなるときに勇ましい合戦物、日が暮れていくにしたがってドラマティックな演目へ。それから、最後は鬼の派手な演目。一日のリズムに合わせて、一日のリズムを「序破急」という原理で考えはじめたのが室町時代ですから。少なくとも、そのときには、出来上がっていたはずです。

対談写真

 そういえば、遠野で素晴らしいものを観てきましたよ。早池峰神楽…、世阿弥以前の能が唯一残っていると言われている非常に古い神楽ですね。日本で一番古い演劇ともいわれているようです。彼らの跳ねたりする場面とかしぐさを世阿弥がちょっとした絵にして残していますが、なんとなく似てますね。感動すると思うから、ぜひ満次郎さん観に行くといいよ。

 その頃の身体表現は、ちょっと違うとかもしれませんが…。
ぜひ、ごいっしょしましょう。



表現を極限まで削って引き算して、観る人に豊かな発想や想像力を与えてくれるのが能の魅力。

 水木しげるさんも言っていたらしいけど、妖怪の棲めなくなった闇のない日本はどうなんだろうって。でも、妖怪はいなくなるけど、ホラー映画はいつまでも人気があるじゃないですか。子泣き爺とかは、田舎の山とかに生まれる妖怪なんだけれど、ホラー映画は、都会に生まれる妖怪といえるかもしれませんね。

 妖怪は大自然を背景に出てくるけれど、ホラー映画は人間から出てきてますね。

 でも、都会って、ある意味で、人間が意図的に作った一種のオーガニックな存在、つまり自然ともいえるんじゃないかな?都会って、大都会って、その中に細い路地もあれば、暗いところもある…。山の中の怖さもあるけれど、大都市中はもっと恐ろしいかもしれない。いろんな変な事件が起こったり、悪いことってあるじゃないですか。それも、一種の自然現象と思ってもいいような気がします。その世界の中から生まれた現代的な妖怪がホラー映画の主人公たちじゃないかと思います。

 所詮、人間の情念が作り上げた…人間の仕業だから自然現象ですね。

 そういう怖いものは、どの時代にもあったですね。かたちが変わっただけでね。それをきちっと仏教的思想などに合わせて、整理して1つのストーリーとして、いやストーリーというよりスナップショットとして演じてきたのが、能なんですね。

 能をはじめ、伝統芸能は含みがあって、観る人の解釈でいろんなかたちになる、というものが多いと思うんですけど。まさに鬼なんて、空想力、観る人が勝手に考えて、いろんなスタイルを作って…というところがありますね。最近そういう想像力を必要とするものが廃れてきているというか、少なくなってきている。

 最近のは、お遊びだね。どこかで道徳心だとか哲学とか、そういうのを伝えようとするのが伝統芸能。オペラは、それからスタートしています。一種の古い時代のモラリティ・プレイ(道徳劇)なんです。中世時代の壬生狂言みたいなもので、キリスト教の道徳だとか天地創造の話だとか、そういうものがルネッサンス以降オペラに変っていった。

 能もそうですよね。祈りの時代から続いているものだから。いわゆる人間のため、人間が純粋に芸術として楽しむところまで行きついていますけど。どこかにモラリティ・プレイの要素を持っていると思います。そして、含みがいっぱいあって、あれはなんだろう?とか…見る側に考えるすき間をつくっています。

 能の場合は、全体をみせないから。鬼になる長ーい話、これがあって…次にこうなって…。それで結局、鬼になって…。その原因はこんな悪いことしたから…、あるいは、あんなことしたから…。そんなことを一切見せないし、教えない。ある一場面だけを示すんですね。一つの芝居というよりも写真みたいなもので、ある一瞬みたいなものを見せるだけ…。

 なるほど!

 だから、強烈。なんでこんなふうになった?この後どうなるだろう?その辺がとてもミステリー。パッと一瞬だけだから。例えば、葵上が、夢の中に来たのも…その一瞬の出来事として扱っているみたい…。だから、余計に人間らしいリアリティが表現されている。

対談写真

 能は、全部出さないっていうか…どんどん削っていく芸能。引き算していく…、削っていくんだけど、表現としては、より豊かになっていく。普通の演劇だと削れば削るほど表現が無くなっていくだけれど。能の場合は、削ることによって、観る人に自由な発想、想像力を与える。単に削るんじゃなくて、削るということは、すごくパワーのいることで、それだけオーラとかエネルギーを出すようにしないといけない。観る人もそうかも知れませんが…。観る人が、想像力を持ちながら観ようとすればするほど、自分の自由な山、花、川…観えてくる。そこは、前衛的で面白いところであって…。そういうものは、どんどん廃れていくんですね。分らない人が増えていく…今、これから現代は、ボケーっとしてても面白ければいいっていうものばかりが流行る。人間の想像力は、衰えてしまうだけなのでしょうか。この人間固有の能力こそ大切にしたいものなのですが。

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Alex Kerr(アレックス・カー)
東洋文化研究者・NPO法人「チイオリ・トラスト」主宰
1952年米国生まれ。1964年家族と共に初来日。エール大学、英国オックスフォード大学卒業後、1977年より京都府亀岡市に在住し、日本と東アジア文化に関する講演、執筆等に携わる。2004年(株)庵を設立し取締役会長として京町家の再生事業、景観コンサルタント、 日本伝統文化体験研修事業を開始。2010年に会長職を退職。その後はNPO法人「チイオリ・トラスト」の理事長として日本伝統家屋の修築保存活動、及び日本伝統文化体験研修事業を続行。著書:『美しき日本の残像』(1993年新潮社、新潮学芸賞受賞)、『犬と鬼』(2002年講談社)、Bangkok Found (River Book, 2009) その他。
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