新聞でも告知がありましたように、今年9月に逝去なされた佐野萌師を偲ぶ会が、
20日都内ホテルで催され、大勢の方が参集なさり、故人の威徳を称え、偲び、お別れをしました。
受付のお手伝いをしていたために殆ど会場には入りませんでしたが、合間に祭壇に向かって
お参りさせていただいた時、その遺影を拝して、今更ながらに信じられない気持ちでした。
初めて舞台をご一緒させていただいたのは小学4年生でした。
実家の香里能楽堂での七宝会定期能で、「船弁慶」の子方で
お相手させていただいたときでした。
いつでも着物姿、大阪にいらした時もそうなので 幼心に(身体は既に大きかったですが)
「東京の先生は、ちゃんとなさっているんやなあ」と思ったものです。
その後、上京して入学した東京芸大でも大変なお世話になりました。
もちろん、教官(当時助教授)と学生ではありますが、この世界ですから
「師匠」として様々なことを教わりました。
東京で修行した宝生流能楽師の大多数が佐野師に教わっています。
もともとの師や宗家にも習いながらですが。
「公務」として、学内では能役者にしては珍しく、常に公正であられました。
何事も、どなたに対しても、「馴れ合い処理」にせず、毅然とした、
それでいて丁寧な対応を貫かれていました。
それは、学外でも基本的な理念であられたと思います。
宝生英雄宗家の内弟子修行をしながらの大学通いは決して楽ではありませんでした。
英雄宗家に毎日叱られ、芸大では佐野師にギョロっと睨まれお小言を頂戴する日々が続き・・・
もとはといえば全部自分が悪いのですが、1学年下の甥であられる登君もご同様の状況で、
いや、身内にはことに厳しい方でしたから、彼はもっと辛かったでしょう。
当時邦楽科での「遠足」があり、年に1度、洋服姿でニコニコとされる師を見て、
束の間ホッとしておりました。
なんとか芸大を卒業し、数年後に内弟子も卒業・独立し、「教授」と「助手」という形で
お仕えするようになりました。
息子のような年の私なんぞにも「辰巳さん」「お願いします」とおっしゃって接する御方でした。
すぐ上の先輩からも「マンジロ~ッ!」と言われる世界なのに。
26歳の若造に大人として接するということは、自立を自覚させるということでもあったのかと、
人を育てることの深さをも教わった気がしました。
5年間助手をしたあとも、東京・名古屋・大阪・九州の定期能でご一緒し、
父が亡くなったあとは、初めて舞台に掛けるもののご指導を仰いでおりました。
年に2度、鎌倉のお宅で芸大関係者の集まる「若葉サロン」では楽しい時間を
過ごさせていただいきました。
「満次郎の会」立ち上げのご相談をしたときも丁寧なお手紙を頂戴し感激したものです。
「やるからには良い催しをせよ」というお言葉をいただき、
当日は仕舞を舞っていただく予定でした。
能を舞った1週間後に入院して数日で亡くなると言う、
周りも、おそらくご本人さえも意外な「ご最後」で、現実として受け留め難い事ですが・・・
適切な表現かどうか悩みますが、元来の「潔さ」の感じられる御舞台と似ていたような気もします。
師は和英宗家ほか大勢のプロを指導なさっていました。
しかしいつまでも戸惑っているわけには行きません。
教えを忘れずに精進したいと思います。
本年は親しい方の訃報に数々接する、哀しい年でもありました。
ご冥福をお祈り申し上げます。